母の満州記

これから毎週一回 実家の母が忘れないうちにと書き留めた手記を公表しようと思います。 お暇な方 目を通してくださいね。  一応 生存者は母だけになりましたけど 人物名は伏せておきます。

原文のままに
『昭和二十年 八月十五日の早朝  早馬で本部から連絡があり 関東軍の命令で 作戦上邪魔になるから 自分の家に火を付け焼いて立ち退けと 大変な命令が下されました。

終戦になったのも知らず 関東軍の命令は絶対でした。

それからの慌ただしさ 親戚の様に親しくしていた満人達が集まってきて 「俺たちが面倒みるから 何があっても守るから行かないでくれ」 と涙ながらに取りすがられました。

でも 命令には逆らえません! 火を付ける前に親しい満人達に出来るだけ品物を上げました。  自分達のは最小限に馬車に積んで 住み慣れた我が家に火を放ったのです。

我が家に火を付ける・・こんな残酷な事はありません。  父母の胸中はいかばかりだったかと思います。 関東軍の命令には逆らえませんでした。 ところが その関東軍の偉い人達は日本が負ける事を知っていたのでしょう。 
敗戦国民となり どんな事になるか・・避難民となった場合の苦しみも判っていたのでしょう 自分達の家族は 早々と日本にかえすか 安全な場所に避難させたと 後で聞きました

一般人は 特に国境地帯に住んでいた開拓民は 見捨てられたのです。  今でも 許せない気持ちで いっぱいです

とにかく命令に従って着の身着のまま馬車一台に家族一同 身を寄せ合って 避難の一歩を踏み出しました。

姉の○○子は その時10ヶ月の身重でした。  どんなに辛かったでしょう  一緒に避難をしたのは百名位でした 殆どが 女子供ばかり  男性は 避難の十日くらい前に根こそぎ招集されて 男の人は団長さんと年老いた父と病身の人ばかりでした

「敦化」という町を目指したのですが その町まで五十里の道のりです  アルジャンと云う険しい山を越えなくてはなりません  「お母ちゃん足が痛いよ~」と泣き叫ぶ3歳の子供 母親は赤ちゃんをおぶっているので抱いてやる事も出来ず 子供は泣き泣き歩きました

私達も自分の事だけで精一杯。 手伝ってあげる事も出来ませんでした。
今でも「足が痛いよ~」と泣き叫ぶ声が 耳から離れません

それもこれも ソ連兵が 子供や年寄り足の弱い人を乗せる為に持ってきた馬車を略奪していったからです』

                                           *** 続く ***

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この記事へのコメント

もりんちゃん
2013年01月22日 22:52
那須美さんのお母さんは、大変な苦労と経験をしてるんですね。
続きを是非とも読ませて頂きます。
那須美
2013年01月22日 23:36
もりんちゃん こんばんは。
昨年NHKで那須町千振の「開拓者」が放映されました  それがきっかけです。 母は12歳の時、家族と共に中国大陸に渡り 戦後、満州からの引き揚げるのに大変苦労したと聞きました。 続編楽しみにして下さいね・・(私は一切加筆してません)  
なすこぐま
2013年01月23日 11:00
私も大陸の日本国への憧れがありますが、終戦になると悲惨な話なのですね。けど、今も棄民政策をされているような気がします。続編楽しみにしています。
やー子
2013年01月23日 17:23
私の母の伯母は満州に嫁に行き、敗戦となり引揚げ船の中で何人も、赤ちゃん、子供が亡くなっていくの見たそうです。そして、その時船は、同場所で3回回りぼーという汽笛鳴らし進行する・・。母からの話。 

 
那須美
2013年01月23日 21:55
なすこぐまさん こんばんは。
那須高原は戦後の開拓地ですね 母ならぬ苦労をされた方が大勢います・・いましたね・・になる前に記憶を辿って書いてもらいました。
那須美
2013年01月23日 22:09
ヤー子ちゃん こんばんは。
親戚にも満州に渡った方がいましたか。栄養失調で体力の無い子供や年寄りが犠牲者になったと聞きました 船の中で亡くなった人は水葬にするしかなかったのですね。 

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